我、2000シドニーオリンピックを想ふ2021夏

 

2000年9月15日金曜日夜、私は留学していたオーストラリア・クイーンズランド州のブリスベンからお隣のニューサウスウェールズ州のシドニーへ向かうカンタス航空機内にいた。

そろそろ目的地かな、という頃「当機は只今シドニー上空です。地上のひときわ明るい場所がオリンピックスタジアムで、現在開会式が行われていますよ」というCAのアナウンスがあり一緒に乗っていた友人Mと席を立って反対側の席まで見に行った。私達の倍くらいの体格のオージー乗客もこぞって移動して、機体が傾いたような気がした。

「ちょっと、事故だけはカンベンしてよね…。せっかくチケットを手に入れたんだから」

遡ること4ヶ月前、2000年5月にあったシドニーオリンピックのチケット争奪戦。
シドニーオリンピックのチケットは電話オーダーだった。当時はインターネット予約なんてまだまだ一般的じゃない時代だったから…(^^;

当時の新聞。「オリンピック・チケットガイド」

指定の番号に電話し、max6試合までの取りたいチケットの詳細と個人情報を登録すると、後日抽選に掛けられるというもの。
もちろんオペレーターには全て英語で伝える必要があり、まだロクに喋れない語学留学生には酷なシステムであった。しかし、私はどうしてもシドニーで野球の試合が見たい!

辛抱強いオペレーターと必死で英語をしゃべった甲斐あって、決勝と3位決定戦を含めた希望の6試合全ての野球チケットが私のものになった。それと確か日本の代理店から家族に買ってもらったのだと記憶しているが、3試合を追加しなんと9試合分ものチケットを予約することができた。
(ちなみにシドニー2000野球の予選は総当たりリーグで、5月のチケット予約の段階で日本の試合日程はわかっていた。)
決勝こそ$100超えだが、予選なんて$19という破格の値段(当時のレートで1500円位だろうか?)。陸上や当時イアンソープ全盛期の水泳なんて超狭き門だったみたいだが、この時ばかりはオーストラリアの野球人気のなさに感謝した。

ついでに、柔道と同行の友人Mが見たがっていた体操のチケットも手に入れた。

ズラリと並ぶ、ホログラムの入った厚紙のチケットは、なんともいえないオリンピックの特別感がある。”エンブレム”は、先住民アボリジニの武器であるブーメランと近代的なシドニーオペラハウスを模したもの。
21年経っても色褪せることなく当時のままだ。
私のTOKYO2020(野球)のチケットは、紙になることもなく消えてしまったが…。

さて命の次に大事なチケットをスーツケースにしっかりと入れてシドニー入りした翌日は、柔道男子60kgと女子48kg級をダーリングハーバーの会場へ見に行った。
そう、野村・田村(当時)両選手の金メダルが私のシドニーオリンピック初日だった。目の前で日本の選手が!しかも2人も!金メダルの表彰台に上った!! なんて素晴らしいスタートだろう。

表彰式の衣装はオーストラリアのブッシュハットをイメージしているのかな。
奇をてらわずその国らしいものを使って、場に馴染んでいる。

そこからの10日間は、ほぼ野球の日々。
シドニー中心部のホテルは軒並み満室なので、だいぶ郊外のエリアに宿を取り、会場であるオリンピックパークから毎日1時間程電車で通った。ちなみに試合のチケットを持っていれば電車は無料。
大阪のホテルに泊まって毎日甲子園に高校野球を見に行く感覚で、オリンピックの野球を楽しんだ。

シドニーオリンピックは最初で最後のプロアマ混成チームで、当時私は野球はアマチュアしか興味がなかったので「アマだけでいいのに」と思ってた。それでも球場で観客がフェンス越しに選手と握手してもらっているところに自分も入りこんでいって、目の前にいた中村紀洋選手に握手してもらったなぁ。手を出すときに「一応!!!」って心の声が実際に出てしまって隣にいた友人Mに怒られたが、ノリはちゃんと握手してくれた。いい人だな。

実はあんまり試合自体のことは覚えていなくて、当時の記録をググって見てみても「そうだったっけ?」ってくらいで、あまりピンと来ないのよね。

でも、オリンピックパークに通った日々のエピソードは次々と出て来る。

安かったとはいえチケット代とホテル代、それに往復の飛行機で結構出費がかさんでしまった為、現地での食費やはなるべく抑えようと友人Mと誓いを立てた。

その為、基本朝は食べず。昼は近くのスーパーで買った日本のサンドイッチ用くらいの薄っぺらい食パンにチーズとハムを挟んでサンドイッチにしたものを球場へ持って行き、周りの人達が美味しそうに売店のホットドッグを頬張っている横でモソモソと食べていた。ホテルの部屋のハウスキーピングで毎日置いてもらえるクッキーがオヤツ。夜は部屋に戻ってアジア食品店で買った$1のカップラーメンをズルズル。「観光できる日が1日あるから、その日はマクドナルドに行こう!」とそれを楽しみにしていた。今思うとなんちゅう食生活だ。 せっかくシドニーに行ったのにパンケーキもシーフードも口にすることはなかった(泣)

それどころか、忘れもしない南アフリカ戦のナイターのこと。
とっくにハムチーズサンドが消化された18時30分からの試合で、周りから漂う美味しそうなスタジアムフードの匂いに耐え切れず「もうおなか減って試合どころじゃない」状態だった。
やっと試合終了となりみんなが席を立ち始めると、1つ先のブロックの座席にほとんど手をつけていなさそうなナチョスが持ち主不在でポツンと残されていた。

「あ~もったいないね」と友人Mと見つめていたが、次の瞬間「もう耐えられん」とMが走り寄ってナチョスを摘まんでいた。2021年には考えられない、いや2000年でもどうかと思うがそのくらい空腹だった。私は彼女の背中を見つめるだけに留まったが、いまだに忘れられない出来事である。Mはもう忘れてほしいらしくこの事を口にすると怒られるのだが、4年に1度は必ず思い起こされてしまうのだから仕方がない。

また、ブリスベンで何も応援グッズを用意してこなかった私達。
いざスタジアムに行ってみると、みなさん国旗やボード、フェイスペインティング等で華やかに応援している。

これは私らもなんとかせねばと、スーパーでカラー模造紙に定規、ハサミ、マジック等を買い即席応援ボードを作成。 国旗は白い紙の上にホテルの部屋のワインクーラーの底を当てて日の丸を書いて赤マジックで塗りつぶした。

何故HIROSEなのかは、ここでは省略。

ちなみに何度か日本のテレビ中継に抜かれていたらしい。(^^;

今でこそ日本の球場でも流れる「Take me out to the ball game」(私を野球に連れてって)。
私が初めて聴いたのがシドニーオリンピックの試合のイニング間だった。どこの国との試合でも観客がみんな歌っているのに驚き「絶対覚えよう!」と、スマホがないのでスクリーンに映る歌詞を素早くメモして部屋で練習して最後の試合にはソラで歌えるようになったし、今でも歌える。

予め計画していたことと言えば浴衣を着て観戦することで、こちらはしっかりブリスベンから持参してスタジアムに着て行った。

これがまぁ各国の方々に好評で、オリンピックパークを少し歩けば数十メートルおきに「写真を撮らせてください!」と声を掛けられる。「今日は何人来るかねぇ」なんてアイドル気取りで歩いていたな…。
日本からの観客も意外に浴衣姿の人はいなくて、スタジアムで一緒に写真を撮ってもらった現地レポーターのデーブ大久保氏にも絶賛された(笑)

土地が有り余るオーストラリアならではの広大なオリンピックパークには野球場の他、陸上、水泳、体育館、アボリジニ等の資料が展示されたエキスポや大きなフードコート、マーチャンダイス等々まさに大イベント会場だった。

記念に買ったマスコットもいまだに持っている。

カモノハシのSyd(シド=シドニー)、ハリモグラのMillie(ミリー=ミレニアム)、ワライカワセミのOlly(オリ―=オリンピック)。
オーストラリアの動物を使っていて名前も覚えやすい。よく考えられている。

シドニーオリンピック11泊12日の旅は最高に楽しくて2016年に2ヶ月東南アジアを一人旅するまでベスト旅1位にずっと君臨していた。TOKYO2020でまた現地観戦して世界中の人々とお祭りできるのをすごく楽しみにしていただけに、今本当に残念で寂しい・悲しい気持ちで溢れている。

そんな折、2032年のオリンピック開催地が決定した。私の第二の故郷ブリスベンだ。
SNSでは馴染みの風景に無数の花火が打ち上げられていて、祝福の笑顔でいっぱいだった。きっと11年後にはまた満員のスタジアムで観戦できるに違いないので、TOKYOの分はBRISBANEで取り返すしかないな。

今夜はTOKYO2020の開会式。
既に開会前に心が疲れてしまったが、もう雑音はシャットアウトして純粋にスポーツそのものだけを楽しもう。
アスリートの方々が安全に、持てる力を発揮できるよう祈りつつ、このシドニー想い出話は閉幕としたい。

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